Blog|Art U Staff Blog “asobe”

Nicola Tyson

Art Collaboration Kyoto で初めて出会いました、貴女に。視覚からくる伝達はすっと私の体の中に溶け込みました。なんの違和感もなく。そしてその要素は私を呼び覚ますのです。その波紋は徐々に広がるのです。一体これはなんだろうか?私の貴女に対する興味に苛まれています。

I met you for the first time at Art Collaboration Kyoto. The visual transmission melted into my body. No discomfort. And that element awakens me. The ripples gradually spread. What the hell is this? I am fascinated by my interest in you.

# ボイス+パレルモ # BEUYS +PALERMO

久し振りのボイス展 頭を悩まさられるのを覚悟に行った。イヤホンガイドで難解なボイスの概略が掴めたと思う。フェルトロールは凄い、工事の騒音を遮断するためにフエルトロールが会場の壁にぎっしりと嵌め込まれた。それは無音の世界への誘い、つまり自己との対話の世界に導く。豊田市美術館蔵だって、これも凄い!と思う。学芸員の先見の明と努力に脱帽する。今回の展覧会での発見はパレルモ、全然知りませんでした。一見ミニマルアートに見えるが情念を閉じ込めた冷たいミニマルアートではない。線から震えるような魂の息吹きが伝わってくる。なんと繊細な魂なのだろうか?見るものは五感を研ぎ過ごして立たずまされる。そして、なんと大胆不敵なのだろうか?制作なんかしていない。世俗界のものの常識というベールを剥ぐだけのこと。ボイスの一番の弟子は天使のような顔をして美術界をひっくり返してさっさと天国に行った、残った者たちは右往左往するばかり。めっちゃおもろい一日でした。

 

象の女王<アテネ>とアボリジニ画家<エミリー・カーメ・ウングワレー >

 APtv で「ゾウの女王: 偉大な母の物語」イギリス・ケニア合作のドキュメンタリー映画を見た。素晴らしいドキュメンタリーに私は今までにない感動を憶えた。体力と知力に優れたリーダー女王・アテネは群れの生死を担う。植物や水源に恵まれたキングダムに生息していたが深刻な旱魃に襲われ別の生息地を探さなければならなくなった。最寄りの水源地でも 200 マイルの距離がある。群れには生まれたばかりのミミがいる。生まれたばかりでも自力で歩かねばならない。アテネはミミの成長と旱魃の進行の狭間で思案する。その天秤は群れの存続にかたむき出発を決意する。それは飲まず食わずの強行軍だ。案の定母象の乳の出も悪く栄養もとれずミミは途中で死ぬ。そのシーンの母象や仲間の悲しみかたが胸を突く。
そして厳しい行軍の途中に砂漠でかっての仲間の頭蓋骨に遭遇し立ち止まりそれぞれが哀悼の意を表する。私はその敬虔な姿に胸を打たれた。最終的には水源にたどり着き生の謳歌のシーンで心が軽くなったが。
アテネの頭脳には母象から教えられた水源への地図が組み込まれていると、私はアボリジニのエミリー・カーメ・ウングワレーの作品が脳裏に浮かんできた。アボリジニは五万年以上前からオーストラリアの地に生存している。彼らの造形は決して絵画のための絵画ではない。種の生存のため引き継がれたバイブルなのだ。生の根源の水源への、獲物を得るための行程を記したものでは。もし象のアテネの頭脳を造形化したら共通するのではないだろうか?
造形の根源は生命体の存続、造形物を目にするときのキーワードだ。
映画を見て、生命の営みの深遠と地球時間を知らされた。そして、改めて矮小な自我のなかにいる自分に気づかされるのでした。
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“asobi”<あそび>って一体なんでしょうか?

古来日本文化には~遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ~梁塵秘抄(りょうじんひしょう)や禅語「遊心」が風流=芸術の根底にあります。
西洋ではホイジンガの「ホモ・ルーデンス」という遊戯が人間活動の本質であり、文化を生み出す根源だと思想があります。
私には三人の赤ん坊を育てた臨床体験が鮮明に脳裏に刻みこまれています。乳に満ち足り、寝足りた赤ん坊の行為ですがそれはそれは好奇心に溢れています。手足で遊んだり、触れるものは何でも口に持っていったり、触覚、視覚、聴覚をフル回転して一時の休みもなく遊んでいます。ハイハイができるようになるとその好奇心は一段と高まり、その好奇心により運動能力が発達していく様に見えます。
この好奇心こそ人間の本質であり asobiではないでしょうか?

さて前書きが長くなりましたが、その狙いは私の 密やかな asobiを正当化するための方便でもあるのです。
寛仁大度な作家さま方が私の“asobi”に目くじらたてられないことを願っての、

ところで、今私が目にしている作品はかってはあなたの胎内から産み出されたものですね。安産であったか、七転八倒の難産であったかはわかりませんが産み出された作品はもう一つの独立した人格?というか画格を持った生命体として存在しているのです。
そして見る者の心に生命の輝きを点火させ、時空を超えて生命のエネルギーを放出し続けるのです。
もうそれは産みの親である作家さんの圏外の事象なのです。
感動された時、もうその人のPersonal possessionになるのですから。
感動するとは一体どういうことでしょうか?
それは見者の内にある感性が呼び覚まされる、そして共鳴することではないでしょうか。見者の未窟の鉱脈を探り当てる歓喜と奏でる協奏曲こそ至宝の asobi ではないでしょうか?

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Asobi

References to play abound in Japanese culture passed down over the centuries. Good examples include one of the Ryojin-hisho* songs, “We are all born to play, born to have fun. When I hear the voices of children playing, my old body still responds, wanting to join in,” and the Zen word, Yushin/Asobi-gokoro (A playful mind/Playfulness). Such references indicate that play (asobi) is one of the foundations of art and the popular arts. Similar ideas can be seen in the West, such as Johan Huizinga’s Homo Ludens (or Playing Man), which discussed the importance of play as an essential element in human activity and the origin of culture.

The experience of nursing and rearing my three children is vividly imprinted on my mind. Babies who had plenty of breast milk and sufficient sleep were absolutely brimming with curiosity. They played constantly, with their senses of touch, sight, and hearing in high gear, playing with their hands and feet, and putting anything they touched in their mouths. Once they started crawling, their curiosity went up another gear, seeming to drive the development of their physical abilities and motor skills. This curiosity is surely the essence of humanity, the manifestation of Asobi-gokoro or playful mind.

Please forgive the lengthy introduction, which largely serves to justify my own furtive play. I hope my playing will not overtax the artists’ generosity and compassion. You know, the artwork that I am now looking at has come forth from your womb. I don’t know if it was an easy delivery or an excruciatingly painful, difficult delivery, but now that it is done, the work that you gave birth to exists as a separate entity with its own independent character and its own life.

That entity sparks the fire of life in the hearts of viewers, triggering the ongoing emission of life energy that will transcend time and space. What happens is already outside the control of the artist who gave birth to it. When your art moves someone emotionally, that experience becomes his or her personal possession.

What does it mean to move someone? Surely it means stirring the viewer’s emotions and resonating inside him or her.Performing a ‘concerto’ that resounds with the joy of discovering an untouched vein of something precious inside the viewer is surely the most treasured form of play.

*Ryojin-hisho (Songs to Make the Dust Dance on the Beams): a folk song collection compiled by Cloistered Emperor Go-Shirakawa in the end of Heian period. (12th century)

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