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東京オペラシティ アートギャラリーにて松谷武判の回顧展が開幕!

本日より初台の東京オペラシティアートギャラリーにて「松谷武判」展が始まりました。本展は、具体美術協会加入前の作品からパリで制作する現在に至るまで、各時期の代表作を集めた総数200点以上の作品による大回顧展で、併せて展示された未発表のスケッチブック、制作日誌、ドローイング等を通して、今年87歳を迎えた作家の創作活動の軌跡をたどることができます。

会場には本展の内覧会のパフォーマンスにて制作された作品も展示されており、また、昨日開かれたプレスレビューでは、大勢の観客に見守られながら登場した松谷武判氏は、フランス語、日本語、英語を交えたスピーチを行ない、大きな喝采を博していました。十代の頃には結核で長年闘病生活送ったり、1966年にフランスに渡って以降、芸術家として自活できるまで苦労された松谷氏ですが、現在本拠地とするパリでは、後進のアーティストをサポートするための財団を立ち上げるなど、益々エネルギッシュに活動を行なわれています。

なお本展には、松谷氏が昨年帰国された際にご対面いただいた27歳時の作品も展示されていますので、どうぞお見逃しなく。

展覧会名:  松谷武判 Takesada Matsutani
会期:  2024 年 10 月 3 日[木]- 12 月 17 日[火]
会場:  東京オペラシティ アートギャラリー
開館時間: 11:00 - 19:00(入場は 18:30 まで)
休館日: 月曜日(祝休日の場合は翌火曜日)
入場料: 一般 1600[1400]円/大・高生 1000[800]円/中学生以下無料

生誕100年 白髪一雄展

作品は突然変異で生まれない。作家、作品には深い根があります。白髪一雄は尼崎を抜きにはあり得ない、今回の展覧会はそこにスポットを当てた地元ならではの白髪ファン必見の展覧会です。

Works are not born by sudden sudden mutations. Artists and their works have deep roots. Shiraga Kazuo would not exist without Amagasaki, and this exhibition focuses on that, making it a must-see for Shiraga fans in the local area.

白髪一雄と縄文

思えば<白髪一雄>には純粋に作品に惹かれてがきっかけでした。アートマーケットが低迷する30年くらい前に東京の画廊から100 号の作品のオファーがきました。よほど景気が悪かったのでしょう。ちょっと興味を示しただけですぐに送ってきました。私は一目みて購入を決めました。殆ど白髪さんの作品を見ていないのに。それに手元不如意でした。確か500万だったと思いますがどこにそんなお金をどうして工面したか、大変なリスクだったと思います。現在の白髪マーケットとは運伝の差。当時は現代美術は冷飯でして決して利益を期待していませんでした、とゆうより期待できませんでした。

今、私が不思議なのはそんな状況で購入した自分自身です。何か心の奥底から発するものが白髪さんの作品と共鳴したのでしょうか?その作品は「聖狗」1963年です。

縄文は文化とゆうより土器の造形には若い時から惹かれています。コロナ旋風の時も膝の痛みに耐えながらも十日町市博物館までも出向く私です。

縄文に惹かれるセンサー、白髪一雄に惹かれるセンサーは方程式にして同根ではないかと思います。そして何よりもその根の保有者の自分自身の探究に興味を持つのです。

 

 

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“asobi”<あそび>って一体なんでしょうか?

古来日本文化には~遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ~梁塵秘抄(りょうじんひしょう)や禅語「遊心」が風流=芸術の根底にあります。
西洋ではホイジンガの「ホモ・ルーデンス」という遊戯が人間活動の本質であり、文化を生み出す根源だと思想があります。
私には三人の赤ん坊を育てた臨床体験が鮮明に脳裏に刻みこまれています。乳に満ち足り、寝足りた赤ん坊の行為ですがそれはそれは好奇心に溢れています。手足で遊んだり、触れるものは何でも口に持っていったり、触覚、視覚、聴覚をフル回転して一時の休みもなく遊んでいます。ハイハイができるようになるとその好奇心は一段と高まり、その好奇心により運動能力が発達していく様に見えます。
この好奇心こそ人間の本質であり asobiではないでしょうか?

さて前書きが長くなりましたが、その狙いは私の 密やかな asobiを正当化するための方便でもあるのです。
寛仁大度な作家さま方が私の“asobi”に目くじらたてられないことを願っての、

ところで、今私が目にしている作品はかってはあなたの胎内から産み出されたものですね。安産であったか、七転八倒の難産であったかはわかりませんが産み出された作品はもう一つの独立した人格?というか画格を持った生命体として存在しているのです。
そして見る者の心に生命の輝きを点火させ、時空を超えて生命のエネルギーを放出し続けるのです。
もうそれは産みの親である作家さんの圏外の事象なのです。
感動された時、もうその人のPersonal possessionになるのですから。
感動するとは一体どういうことでしょうか?
それは見者の内にある感性が呼び覚まされる、そして共鳴することではないでしょうか。見者の未窟の鉱脈を探り当てる歓喜と奏でる協奏曲こそ至宝の asobi ではないでしょうか?

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Asobi

References to play abound in Japanese culture passed down over the centuries. Good examples include one of the Ryojin-hisho* songs, “We are all born to play, born to have fun. When I hear the voices of children playing, my old body still responds, wanting to join in,” and the Zen word, Yushin/Asobi-gokoro (A playful mind/Playfulness). Such references indicate that play (asobi) is one of the foundations of art and the popular arts. Similar ideas can be seen in the West, such as Johan Huizinga’s Homo Ludens (or Playing Man), which discussed the importance of play as an essential element in human activity and the origin of culture.

The experience of nursing and rearing my three children is vividly imprinted on my mind. Babies who had plenty of breast milk and sufficient sleep were absolutely brimming with curiosity. They played constantly, with their senses of touch, sight, and hearing in high gear, playing with their hands and feet, and putting anything they touched in their mouths. Once they started crawling, their curiosity went up another gear, seeming to drive the development of their physical abilities and motor skills. This curiosity is surely the essence of humanity, the manifestation of Asobi-gokoro or playful mind.

Please forgive the lengthy introduction, which largely serves to justify my own furtive play. I hope my playing will not overtax the artists’ generosity and compassion. You know, the artwork that I am now looking at has come forth from your womb. I don’t know if it was an easy delivery or an excruciatingly painful, difficult delivery, but now that it is done, the work that you gave birth to exists as a separate entity with its own independent character and its own life.

That entity sparks the fire of life in the hearts of viewers, triggering the ongoing emission of life energy that will transcend time and space. What happens is already outside the control of the artist who gave birth to it. When your art moves someone emotionally, that experience becomes his or her personal possession.

What does it mean to move someone? Surely it means stirring the viewer’s emotions and resonating inside him or her.Performing a ‘concerto’ that resounds with the joy of discovering an untouched vein of something precious inside the viewer is surely the most treasured form of play.

*Ryojin-hisho (Songs to Make the Dust Dance on the Beams): a folk song collection compiled by Cloistered Emperor Go-Shirakawa in the end of Heian period. (12th century)

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