Blog|Art U Staff Blog “asobe”

もとながさんがいやはりました!

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もとながさんのお姿しばらくみませんなぁ、ちょっと前までは大阪、神戸、京都で、阪急電車で、ようおめにかかりましたのに、、、なんやさいきん暫くおみかけせいへんので寂しいおもてましたわ。

ワォ!おいでやしたやおへんか、すぐ近くの土佐堀に。どかーんといやはりましたわ。なんやえらい気持ちように歌うては李ます、けど「星影のワルツ」ではなさそうです。久しぶりに元気なもとながさんにおであいしてなんや私もえろう元気もらいました。元永さんおおきに!さんどす。

1966年ジャパンソサイティの招聘で渡米し、エアーブラシの技法を取り入れました。大阪万国博覧会の みどり館の具体展に出品された作品です。元永さん 48 才、油の乗り切った時代です。

元永さんがおいでやすところ→<ルポンドシエル>  〒540-0031 大阪府大阪市中央区北浜東6−9 ルポンドシエルビル

 

河三筋 重ねて湧きたつ 夏の雲 〜大山崎山荘美術館にて〜

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久し振りの大山崎、木漏れ日を受けながらしばし登ります。少し登っただけなのにまるで高原の別荘地のような空気に包まれるのです。中に入ると重厚な建物は深い時を刻んでいて、おのずと体内の重心が臍の緒に下がっていくのを感じるのです。そしてそこにはサム・フランシスはごくあたりまえのように在りまして、濱田庄司とも河井寛次郎ともまるで旧知の仲間のように語り合っているようでした。

地下のギャラリーに行くとまるで今しがたサム・フランシスが描き終えたのでは?と思う程ビビットな大作がずらりと揃い踏み、もしかしたら絵の具が飛び散っているのではと思わず足元を見るばかりに。そして、私の頭にサンタ・モニカの広大なアトリエの景色が蘇ってきました。そこはまるで体育館のような広大なアトリエで、センターにはリフト構えていて、そこから見下ろすと白いキャンバスの畑が何面も広がっている、サイドの顔料のドラム缶の並列、お風呂やさんの掃除道具かと見紛うブラシ類がずらりと、そして壁には所狭しと作品が並べられて、、、

サム・フランシスの魅力はなんといいましてもドリッピングではないでしょうか?ドリッピングがサムか、サムがドリッピングか、見る者をもドリッピングを浴びせられます。そしてわたしの頭に白髪のドリッピングが交差してきました。違うなぁ!サムと白髪のどリッピングは。この違いはなんだろう。白髪さんは重い、サムは軽やかだ。白髪からはまるで地穀から放出されるマグマのような烈しさを、サムからは奔放に飛び交う流星のような軽やかなリズムを、私は感じる。そして油彩の白髪とアクリル絵の具のサム、改めて画家の資質の違いに興味を新たにしました。

 

<サム・フランシス 色彩>〜9 /2 アサヒビール大山崎山荘美術館 https://www.asahibeer-oyamazaki.com

Help! from Dojima River Forum.

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一歩会場に入るや否、怒涛のように押し寄せる荒波に襲われ身の自由は奪われた、のでした。もう、ただただ身を任せるしか術がないのです。波は千変万化に形を変え息つく間もなく押し寄せてくるのです。刻々と変化するフォルムのなんと美しいことでしょうか!意識は怒涛と同化していくのです。ちっぽけな自意識なんて波に飲まれてしまって自己なんかありません。ふと見れば柔らかき布の間、そこにはたゆとう時が流れていて、柔らかな風が身をそっと包んでくれるのでした。

この酷暑から逃れたい方必見の展覧会です。

千住博&チームラボ コラボレーション展「水」〜9・2堂島リバーフォーラム

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“asobi”<あそび>って一体なんでしょうか?

古来日本文化には~遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ~梁塵秘抄(りょうじんひしょう)や禅語「遊心」が風流=芸術の根底にあります。
西洋ではホイジンガの「ホモ・ルーデンス」という遊戯が人間活動の本質であり、文化を生み出す根源だと思想があります。
私には三人の赤ん坊を育てた臨床体験が鮮明に脳裏に刻みこまれています。乳に満ち足り、寝足りた赤ん坊の行為ですがそれはそれは好奇心に溢れています。手足で遊んだり、触れるものは何でも口に持っていったり、触覚、視覚、聴覚をフル回転して一時の休みもなく遊んでいます。ハイハイができるようになるとその好奇心は一段と高まり、その好奇心により運動能力が発達していく様に見えます。
この好奇心こそ人間の本質であり asobiではないでしょうか?

さて前書きが長くなりましたが、その狙いは私の 密やかな asobiを正当化するための方便でもあるのです。
寛仁大度な作家さま方が私の“asobi”に目くじらたてられないことを願っての、

ところで、今私が目にしている作品はかってはあなたの胎内から産み出されたものですね。安産であったか、七転八倒の難産であったかはわかりませんが産み出された作品はもう一つの独立した人格?というか画格を持った生命体として存在しているのです。
そして見る者の心に生命の輝きを点火させ、時空を超えて生命のエネルギーを放出し続けるのです。
もうそれは産みの親である作家さんの圏外の事象なのです。
感動された時、もうその人のPersonal possessionになるのですから。
感動するとは一体どういうことでしょうか?
それは見者の内にある感性が呼び覚まされる、そして共鳴することではないでしょうか。見者の未窟の鉱脈を探り当てる歓喜と奏でる協奏曲こそ至宝の asobi ではないでしょうか?

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Asobi

References to play abound in Japanese culture passed down over the centuries. Good examples include one of the Ryojin-hisho* songs, “We are all born to play, born to have fun. When I hear the voices of children playing, my old body still responds, wanting to join in,” and the Zen word, Yushin/Asobi-gokoro (A playful mind/Playfulness). Such references indicate that play (asobi) is one of the foundations of art and the popular arts. Similar ideas can be seen in the West, such as Johan Huizinga’s Homo Ludens (or Playing Man), which discussed the importance of play as an essential element in human activity and the origin of culture.

The experience of nursing and rearing my three children is vividly imprinted on my mind. Babies who had plenty of breast milk and sufficient sleep were absolutely brimming with curiosity. They played constantly, with their senses of touch, sight, and hearing in high gear, playing with their hands and feet, and putting anything they touched in their mouths. Once they started crawling, their curiosity went up another gear, seeming to drive the development of their physical abilities and motor skills. This curiosity is surely the essence of humanity, the manifestation of Asobi-gokoro or playful mind.

Please forgive the lengthy introduction, which largely serves to justify my own furtive play. I hope my playing will not overtax the artists’ generosity and compassion. You know, the artwork that I am now looking at has come forth from your womb. I don’t know if it was an easy delivery or an excruciatingly painful, difficult delivery, but now that it is done, the work that you gave birth to exists as a separate entity with its own independent character and its own life.

That entity sparks the fire of life in the hearts of viewers, triggering the ongoing emission of life energy that will transcend time and space. What happens is already outside the control of the artist who gave birth to it. When your art moves someone emotionally, that experience becomes his or her personal possession.

What does it mean to move someone? Surely it means stirring the viewer’s emotions and resonating inside him or her.Performing a ‘concerto’ that resounds with the joy of discovering an untouched vein of something precious inside the viewer is surely the most treasured form of play.

*Ryojin-hisho (Songs to Make the Dust Dance on the Beams): a folk song collection compiled by Cloistered Emperor Go-Shirakawa in the end of Heian period. (12th century)

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