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大山そば 響

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京阪の出町柳に密やかな楽しみの場がある。駅を出て東に少し行くと路地の奥に大山そば「響」、この暖簾を目にするとほっとする。今日は久し振りに訪れた。10席もあるかないかの小さな店は中年女性つまりおばさんとお婆さんとアルバイトがきりもっている。威勢のいいおばさんの影で黒子のようにもくもくと動いているおばあさんがなぜか存在感あるのです。この何坪かの蕎麦屋の空間の動く彫刻 ?!それもそのはず、かの辻晉堂さんのご息女の茜さんなのです。私は決して余分なことは言いません。この舞台 を愛する観覧者の一人なのですから。勿論大山蕎麦と燗酒一本を愛でながらの、

 

まさか !? 東京国立博物館でマルセル・デュシャンに出逢うなんて、 

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上野でマルセル・デュシャン展をやってると聞いた、恐らく西洋美術館かな?と銀杏の森を歩いていくとなんと東京国立博物館でした!便器と利休さんの花活けが展示されているなんて仰天しましたが、その心は固定概念の<ちゃぶ台返し>と見抜けば合点納得です。それにしましてもよくやるなぁ、よくやってくれたなぁと企画者の意識の革新を強く感じました。どんな機縁があるのかな?それは東京国立博物館とフィラデルフィア美術館とは日本の古美術で長年の交流があり美術館交流特別展とのことでした。ともかく日本でフィラデルフィア美術館のお宝のデュシャンが見られるなんてただただ感激でした。

没後 10年 白髪一雄 水滸伝シリーズ展

 

 

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白髪先生!お久しぶりです。今日は尼文にいてきました。ほなほんまにえらいことになってましたわ。なんせ豪傑中の豪傑はんが20人も集結してはりますもんやさかい、それはそれはえらいことどす。このきゃしゃな美術ホールがいつまでもつか?豪傑はんがこないよおけあつまらはるんどしたら安藤忠雄はんのような頑丈な鉄筋やないと無理どすなぁ。会期が終わるまで持つか心配になってきましたわ。

それにしましてもようけの豪傑はんが海外にいかはりましたなぁ、みなどないしてはりましゅやろ?尼崎はやっぱり梁山泊どすさかいいっぺん帰ってきたいおもてはるんとちがいますやろか?そやけど国内にもこんだけはいやはることがわかり安心しましたわ。

もう十年にもなるのどすか!先生がそちらにおこしになられてから。そっちでもようお話されてるとちがいますやろか、ほんまに先生のはなしはおもろうおしたなぁ、そんじょそこらの噺家さんよりお上手でしたわ。あの上方のことばのイントネーションからくるニュアンス、ひとことひとことのことばが豊かに広がってゆきましたなぁ。このニュアンスは東京の人にはわかってもらえへんとゆうておいでやしたのを思い出します。阪神電車にて。

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“asobi”<あそび>って一体なんでしょうか?

古来日本文化には~遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ~梁塵秘抄(りょうじんひしょう)や禅語「遊心」が風流=芸術の根底にあります。
西洋ではホイジンガの「ホモ・ルーデンス」という遊戯が人間活動の本質であり、文化を生み出す根源だと思想があります。
私には三人の赤ん坊を育てた臨床体験が鮮明に脳裏に刻みこまれています。乳に満ち足り、寝足りた赤ん坊の行為ですがそれはそれは好奇心に溢れています。手足で遊んだり、触れるものは何でも口に持っていったり、触覚、視覚、聴覚をフル回転して一時の休みもなく遊んでいます。ハイハイができるようになるとその好奇心は一段と高まり、その好奇心により運動能力が発達していく様に見えます。
この好奇心こそ人間の本質であり asobiではないでしょうか?

さて前書きが長くなりましたが、その狙いは私の 密やかな asobiを正当化するための方便でもあるのです。
寛仁大度な作家さま方が私の“asobi”に目くじらたてられないことを願っての、

ところで、今私が目にしている作品はかってはあなたの胎内から産み出されたものですね。安産であったか、七転八倒の難産であったかはわかりませんが産み出された作品はもう一つの独立した人格?というか画格を持った生命体として存在しているのです。
そして見る者の心に生命の輝きを点火させ、時空を超えて生命のエネルギーを放出し続けるのです。
もうそれは産みの親である作家さんの圏外の事象なのです。
感動された時、もうその人のPersonal possessionになるのですから。
感動するとは一体どういうことでしょうか?
それは見者の内にある感性が呼び覚まされる、そして共鳴することではないでしょうか。見者の未窟の鉱脈を探り当てる歓喜と奏でる協奏曲こそ至宝の asobi ではないでしょうか?

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Asobi

References to play abound in Japanese culture passed down over the centuries. Good examples include one of the Ryojin-hisho* songs, “We are all born to play, born to have fun. When I hear the voices of children playing, my old body still responds, wanting to join in,” and the Zen word, Yushin/Asobi-gokoro (A playful mind/Playfulness). Such references indicate that play (asobi) is one of the foundations of art and the popular arts. Similar ideas can be seen in the West, such as Johan Huizinga’s Homo Ludens (or Playing Man), which discussed the importance of play as an essential element in human activity and the origin of culture.

The experience of nursing and rearing my three children is vividly imprinted on my mind. Babies who had plenty of breast milk and sufficient sleep were absolutely brimming with curiosity. They played constantly, with their senses of touch, sight, and hearing in high gear, playing with their hands and feet, and putting anything they touched in their mouths. Once they started crawling, their curiosity went up another gear, seeming to drive the development of their physical abilities and motor skills. This curiosity is surely the essence of humanity, the manifestation of Asobi-gokoro or playful mind.

Please forgive the lengthy introduction, which largely serves to justify my own furtive play. I hope my playing will not overtax the artists’ generosity and compassion. You know, the artwork that I am now looking at has come forth from your womb. I don’t know if it was an easy delivery or an excruciatingly painful, difficult delivery, but now that it is done, the work that you gave birth to exists as a separate entity with its own independent character and its own life.

That entity sparks the fire of life in the hearts of viewers, triggering the ongoing emission of life energy that will transcend time and space. What happens is already outside the control of the artist who gave birth to it. When your art moves someone emotionally, that experience becomes his or her personal possession.

What does it mean to move someone? Surely it means stirring the viewer’s emotions and resonating inside him or her.Performing a ‘concerto’ that resounds with the joy of discovering an untouched vein of something precious inside the viewer is surely the most treasured form of play.

*Ryojin-hisho (Songs to Make the Dust Dance on the Beams): a folk song collection compiled by Cloistered Emperor Go-Shirakawa in the end of Heian period. (12th century)

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