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09/4/13「杉本博司の歴史の歴史展」大阪 国立国際美術館 

09/4/13「杉本博司の歴史の歴史展」大阪 国立国際美術館

オープニングレセプションに行った。いきなり化石の陳列、エッ!杉本博司といえば写真家と私はインプットしているのでなんでや?と、ゲンダイビジュツは落とし穴があるからご用心!アンモナイトやザリガニ、こうもり、、、ともかくも美しい、そして繊細だ。造りものかと目を凝らすがパンフレットに始新世5500万年とか4億4500万年と記されている。しかし何で化石が展示されているの?との疑問符を抱きながら次のコーナーに行くと見たことのある杉本の建築の写真ありやっぱり杉本博司展だと合点。そして古い仏像が、古色蒼然と表装された仏画や金泥の経典がある。昨日行った妙心寺展の京都博物館と錯覚しそうなった時、地平線の海のシリーズコーナーに。これは何度目にしても圧倒され、惹きこまれる。

芸術にとって生命の根源、海は永遠のテーマであり、名作も多々ある。しかし海の本質である<生命の根源>としてこれほどインパクトのある作品は思い付かない。SUGIMOTOの海はまさに地球上に生命体が生じる時の海なのだ。じっと見ていると私の脳幹の記憶装置が超高速度で巻き戻されるのを実感する。

すると隕石、アポロの月面活動の写真が、月の写真の軸の前の三宝には月の石が、何で?ホンマニ月の石かいな?とゆう疑問も猜疑心もインパクトある雰囲気で押し込まれてしまう。

最後にマルセル・デュシャンの肖像とラージグラスが、なるほど合点!これが杉本博司を解くキーなのだ。

杉本は現代のデュシャン。デュシャンが便器や鍬やスコップを展示して認知の常識を鋭く衝いたように、SUGIMOTOは俗世間では趣味や考古学と分類され日常生活から遊離して認識している概念に<骨董・化石など時間の蓄積>した物(ブツ)を突きつける。そして誰しもが宇宙とゆうか神とゆうかの法則の中に在ることを知らしめる。決してそのルールから逃れることは出来ないものを。歴史は時間の集積。時間は如意棒、瞬時と永遠の間に存在する。そしてこの如意棒は残酷無慈悲だ。誰もこの支配から逃れることはできない。広大な始皇帝の墓もピラミットも権力者がこの如意棒から逃れようとしたあがきの証なのだ。

SUGIMOTOに触発された私の脳は勝手に飛躍していきそうだ。

これほど脳味噌に刺激を承けた展覧会は久しく無い。展覧会とゆう概念を越えている。SUGIMOTOの無尽に駆け巡る宇宙観に翻弄される仕掛け場だった。

それにしても昨日は京都・智積院で長谷川等伯の障壁画を独り占め(ホント!国宝を独り占めできるなんてさすが KYOUTO、もしTOKYO で観たら長蛇の列で3分がいいとこ)利休好みの庭園も貸しきり、贅沢は身近にあり、このような時は酷い如意棒からも解き放たれているのではなかろうか。

 

 

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“asobi”<あそび>って一体なんでしょうか?

古来日本文化には~遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ~梁塵秘抄(りょうじんひしょう)や禅語「遊心」が風流=芸術の根底にあります。
西洋ではホイジンガの「ホモ・ルーデンス」という遊戯が人間活動の本質であり、文化を生み出す根源だと思想があります。
私には三人の赤ん坊を育てた臨床体験が鮮明に脳裏に刻みこまれています。乳に満ち足り、寝足りた赤ん坊の行為ですがそれはそれは好奇心に溢れています。手足で遊んだり、触れるものは何でも口に持っていったり、触覚、視覚、聴覚をフル回転して一時の休みもなく遊んでいます。ハイハイができるようになるとその好奇心は一段と高まり、その好奇心により運動能力が発達していく様に見えます。
この好奇心こそ人間の本質であり asobiではないでしょうか?

さて前書きが長くなりましたが、その狙いは私の 密やかな asobiを正当化するための方便でもあるのです。
寛仁大度な作家さま方が私の“asobi”に目くじらたてられないことを願っての、

ところで、今私が目にしている作品はかってはあなたの胎内から産み出されたものですね。安産であったか、七転八倒の難産であったかはわかりませんが産み出された作品はもう一つの独立した人格?というか画格を持った生命体として存在しているのです。
そして見る者の心に生命の輝きを点火させ、時空を超えて生命のエネルギーを放出し続けるのです。
もうそれは産みの親である作家さんの圏外の事象なのです。
感動された時、もうその人のPersonal possessionになるのですから。
感動するとは一体どういうことでしょうか?
それは見者の内にある感性が呼び覚まされる、そして共鳴することではないでしょうか。見者の未窟の鉱脈を探り当てる歓喜と奏でる協奏曲こそ至宝の asobi ではないでしょうか?

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Asobi

References to play abound in Japanese culture passed down over the centuries. Good examples include one of the Ryojin-hisho* songs, “We are all born to play, born to have fun. When I hear the voices of children playing, my old body still responds, wanting to join in,” and the Zen word, Yushin/Asobi-gokoro (A playful mind/Playfulness). Such references indicate that play (asobi) is one of the foundations of art and the popular arts. Similar ideas can be seen in the West, such as Johan Huizinga’s Homo Ludens (or Playing Man), which discussed the importance of play as an essential element in human activity and the origin of culture.

The experience of nursing and rearing my three children is vividly imprinted on my mind. Babies who had plenty of breast milk and sufficient sleep were absolutely brimming with curiosity. They played constantly, with their senses of touch, sight, and hearing in high gear, playing with their hands and feet, and putting anything they touched in their mouths. Once they started crawling, their curiosity went up another gear, seeming to drive the development of their physical abilities and motor skills. This curiosity is surely the essence of humanity, the manifestation of Asobi-gokoro or playful mind.

Please forgive the lengthy introduction, which largely serves to justify my own furtive play. I hope my playing will not overtax the artists’ generosity and compassion. You know, the artwork that I am now looking at has come forth from your womb. I don’t know if it was an easy delivery or an excruciatingly painful, difficult delivery, but now that it is done, the work that you gave birth to exists as a separate entity with its own independent character and its own life.

That entity sparks the fire of life in the hearts of viewers, triggering the ongoing emission of life energy that will transcend time and space. What happens is already outside the control of the artist who gave birth to it. When your art moves someone emotionally, that experience becomes his or her personal possession.

What does it mean to move someone? Surely it means stirring the viewer’s emotions and resonating inside him or her.Performing a ‘concerto’ that resounds with the joy of discovering an untouched vein of something precious inside the viewer is surely the most treasured form of play.

*Ryojin-hisho (Songs to Make the Dust Dance on the Beams): a folk song collection compiled by Cloistered Emperor Go-Shirakawa in the end of Heian period. (12th century)

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